4章 枕石園シリーズ

 枕石園に展示してある門墩の幾つかを収集エピソードと共に紹介します。

 

【整理番号№01】 北京式箱子型有彫飾門墩 
                  (高:44.0 巾:15.5 奥行:47.0)
             旧所在地:北京市西城区南篦子胡同14号 

      画像1:門墩の両姿        (画像をクリックして 大きくなりますヨ)

      画像2:すでに家屋は取壊されて瓦礫の山になっていました。
                (北から南に向かって胡同を写す。)
      画像3:門墩は瓦礫に埋もれていた。
                (黄色い矢印の所にわずかに見えている。)
      画像4:門墩の正面
      画像5:門墩の上面。海棠草ではないかと思います。自信は有りま

          せん。                                            

 

 この門墩は有名な写真集《胡同》(著者徐勇 新潮社発行)に掲載されています。

 著者は「胡同の名前は忘れてしまった。」と書いています。

 

経 過
 96年9月この地区を通りかかり一帯の家屋が取壊されている事を知りました。
 二日後の19日放課後 この地区の調査に行き、家屋は取壊されこの門墩が 瓦礫に埋もれているのを発見しました。(画像3)夕日を受けた美しい門墩を持ち帰りたいと思いました。すでに住人は居ないようです。しかし、黙って持ち帰ると町の人の言う事はほとんど聞き取れない私ではトラブルが発生したら対処できません。誰か通訳が必要です。
 宿舎に帰って日本語科3年の中国学生に話したら、1時間20元+成功報酬で通訳を引き受けてくれました。(1時間20元は日本人が中国学生に中国語を習う場合の当時の相場です。)
 10月4日午後 未だ有る事を願って現場に一人で行きました。ブルトーザーが門墩のそばの瓦礫を奥に押し込んでいました。中国語が出来れば工事人に頼んで門墩を取り出してもらうのですが、それが言葉になりません。見ていると昼食時間になり、ブルトーザーは工事を中止しました。門墩は無事でした。
 翌5日土曜日は授業が無いので、通訳の学生と朝6時に取りに行く事にしました。ところが5日はこの時期の北京にしてはめずらしい大雨で中止しました。それでも気になるので一人で出かけました。
 門墩はありました。雨は小雨です。左側の門墩を瓦礫の中から道路に引出しました。右側のは一人ではびくともしません。大通りに出てタクシーを呼びました。「こんな汚い重いものは運べん!」と行ってしまいました。三台目が来ました。「メーター以外に10元払う。」これがなかなか通じません。やっと「20元ならOK。」
 大学に着きました。私:「降ろすのを手伝って!」運転手:「OK。いくら?」 結局メーターでは20元位の所が60元。でも生れて初めて念願の門墩を物にして、大喜び!! これが収集第1号です!
 翌日 「もう片方を」と思い行ってみると、門墩がありません。近所の人や工事人に聞いても「知らん!」で終わりでした。
 この地域には38組の門墩があります。内18組は良い物で収集したいと思い、当時月に2回はこの地区をうろついていました。
 11月末 現場へ行くと「まだあの門墩を探しているのか?持って行った男を知っているから買い取らないか?」と筋向いの家の男が言います。私「50元で買おう。」男「言っておこう。又来い。」
 翌年1月初め。男「あの門が手に入った。」私「何処にある。」男「俺の家の中だ。」私「見せてくれ!」
 こうして97年1月12日(日) 3ヶ月ぶりに100元で目出度く一対になりました。

【整理番号№02】 北京式箱子型有獅子門墩
                            (高:59.0 巾:15.0 奥行:46.5)
             旧所在地:北京市西城区樹蔭胡同2号

   画像1:両姿
   画像2:胡同風景(南から北を写す。)
   画像3:門(右側の門墩は道の脇に放置されていた。)
   画像4:右正面
   画像5:右上面

 

特 徴:①上の獅子が愛くるしい。
      ②上の獅子が壊れていない。
       獅子は文化大革命の時破壊の対象にされほとんど壊されています。
          完全な物は貴重。

 

経 過
 96年9月19日 都市開発で取壊し予定の為住人の居ない空家の門で見つけました。(画像2) 道路脇に放置された右側の門墩を持上げようとしましたが一人では持上がりません。協力者と車が必要です。
 宿舎に帰って通訳の学生(以後A君とします。)に相談。大学の樹木や草花を管理する人=緑化工人に話をし、門墩を運ぶ大三輪車付き(1台50元)で1個20元で纏まりました。
 10月19日 無人と思っていた門を入ると男が居る。私「この門墩は不要だろう。私に呉れ。」男は中に入れと言う。中は宿舎に使われて沢山の工員が居る。別の男が「これは我々の物だ。他にも欲しいと言う者が居る。何元出す。」「10元!」「駄目だ!」「二つ一組で20元!」 結局手付け20元を払い50元で交渉成立!
 翌20日(日) 私、A君、大三輪車二台、緑化工人4人、の大部隊で大学を出発!すでに見つけていた№3一組、№4一個、№5一個と一緒に意気揚々と持帰り、宿舎の前の広場に並べました。
 運賃は20元×6個=120元でしたが、数が多く大変重かったので30元×6個=180元、車二台で合計280元に増額し支払いました。
 翌日 宿舎の管理責任者が「沢山持ってきたが、今後何個持ってくるつもりだ?!」と聞く。「解からない。まだまだ持ってくるつもりです。」と答えたら、「それは困ったナー。」とつぶやきました。
 この事を担任の教授に話し、置場について協力を頼みました。早速学部長さんが現場を見に来て、11月初めに「大学は文化学院の前庭に門を置く事を認める。」と許可を頂きました。
 万歳!! 万歳!!

 

整理番号№03】 北京式抱鼓型有獣吻頭門墩 
                           (高:54.0 巾:19.0 奥行:63.0)
             旧所在地:北京市西城区按院胡同30号

   画像1:両姿
   画像2:胡同風景(西から東を写す。)
        画像の矢印の所に門墩はあった。一つはこの瓦礫の山の裏側に
       埋もれていた。
   画像3:最初に見つけた路傍の門墩
   画像4:門墩右正面 彫ってある草花の名前はわかりません。
   画像5:門墩右上面 獣吻の鼻から上の眼や頭髪は磨耗して表情は見え
       ません。

特 徴:①丸い太鼓の部分の周辺に唐草模様があるのは数が少なく、珍しい。
      ②太鼓の部分の図は二匹の獅子が中央の繍球を弄んでいる“獅滾繍球”

            の吉祥図です。
           
経 過
 96年10月19日 すでに取壊された家屋の瓦礫の山の麓に右側の門墩が転がっていました。

 近くで遊んでいる子供達に「もう一つの門墩は何処に有るの?」と聞きました。「知らない!」 「見つけてくれたらお礼をするヨ。」と言ってもキョトンとしていました。一人が探し始めると皆があちこち探してくれました。瓦礫の頂上で「あった!」との声。門墩が半分顔を出していました。
「ありがとう!」と言って10元札を差出しました。「いらない!」「不要!不要!」の声を残して子供達は走り去ってしまいました。キラキラ輝いた瞳と笑顔が印象的でした。
 翌日№02,04,05と一緒に大三輪車に乗せて持帰りました。

 

 緑化工人の方々には大変世話に成りました。
 重い門墩を大三輪車に乗せ往復20数キロの道を黙々と運んでくれました。

 暑い夏も、底冷え厳しい冬も。
 中でもリーダーの何さんには価格の交渉、トラブルの仲裁、門墩保存の必要性の説明、相手の説得など私が困っていると助け舟を出してくれました。ありがとう

 

整理番号№04】 北京式抱鼓型有獣吻頭 

                 (高:56.0 巾:24.0 奥行:71.0)
             旧所在地:北京市西城区南楡銭胡同13号

   画像1:両姿
   画像2:胡同(南から北を写す。)
   画像3:右正面
   画像4:右内側
   画像5:右上面

 

特 徴:①基座の彫刻が美しい。
     ②大変比重の重い石。
     ③上面の獣吻の磨耗状況から相当古い物と推定します。(参照 画像5)
         
経 過
 96年10月6日 道端の排水溝の側に一つが転がっていました。近所の人に「保存したいので、持って行ってもいいか?」と訊ねると「長年置きっぱなしだからいいだろう。持って行け。」との返事。
 10月20日 日曜日 №02、03、05と一緒に大三輪車で持ち帰りました。
 翌年4月 同じ所を自転車で通っていたら、老婦人が「お前はここに有った門墩を持って行っただろう?」と言う。
 通訳のA君は居ない!私一人でどうしよう!?とギョッとした。冷や汗が背中を走る。
 じっと聞くと老婦人は「もう一つ要らないか?」と言っているらしい。そのうち「こっちに来い!」と言って門の中に入って行く。ビクビクしながら付いて行く。老婦人の指差す先を見ると、昨年持帰った門墩の片方が有るではないですか!
 「これは以前門を改造した時要らなくなったので、ここへ置いていた。お前が昨年持って行ったのと一対だ。もう間も無くこの家も壊される。お前にやるから持って行け。」ホットして背中の汗が引きました。万歳!無論、ただでした。 
 5月17日 №17、18と一緒に大三輪車で持ち帰りました。
 この老婦人の善意で、約半年振りに一組になりました。
 それにしてもこの門墩は重かった。力持ちの緑化工人でも4人がフウフウ言ってようやく三輪車に乗せられました。帰り道もいつもの倍休憩しました。

 

整理番号№05】 北京式抱鼓型有獣吻頭門墩 右側1個
                 (高:64.0 巾27.0 奥行:  )
               旧所在地:北京市西城区南楡銭胡同18号筋向い

    画像1:右姿
    画像2:家屋取壊し跡の瓦礫の中に放置されていた。
    画像3:門墩の正面
    画像4:門墩の外側
    画像5:門墩の後方上面

 

特 徴:①硬い材質の石で破損が少ない。(但し、後部の軸座部分は欠落。)
      ②太鼓の正面は想像上の花“宝相華” (参照 画像3)
      ③“基座”と“鼓座”の間に敷かれた“錦鋪”に「八宝吉祥図」が彫られて

     いる。
      正面には“宝瓶”(参照 画像3)、外側には“金魚”(参照 画像4)、

     内側には“蓮華”(参照 画像1)が彫られている。
     ④獣吻が龍の子である証拠の頭の二本の角が好く見れる。(参照 画像5)
         
経 過
 96年9月19日 取壊された家屋の瓦礫と共に街路樹の側に一つ転がっていました。瓦礫の屋敷跡をあちこち探しても、もう一つは見つかりません。
 近所の人に「以前これはここの家の門に有ったのですか?もう一つは何処に有るか知りませんか?」と聞いても知る人は居ませんでした。一番のお年寄りが「もともとこの胡同では見たことがない。誰かが他所から持って来て、捨てて行った物だ。」と言う。
 「では、私が持って行ってもいいか?」と聞くと、回りの皆の顔を見ながら「こんな物が要るのか?持って行け!」と言います。
 10月20日 日曜日 №02、03、04と一緒に大三輪車で持ち帰りました。

 

整理番号№09】 北京式箱子型有彫飾門墩 
                 (高:50.0 巾16.0 奥行:60.5)
              旧所在地:北京市西城区前沙路胡同7号

    画像1:両姿
    画像2:家屋取壊し跡の路端に放置されていた。
    画像3:左側門墩の正面(古琴に翻帯)
        画像4:右側門墩の正面(碁盤に翻帯)
    画像5:左側門墩の内側(書物に翻帯)

 

特 徴:①正面と内側に“琴棋書画”が彫られていて教養人の家を表す。
     ②上面には蓮の葉が伏せた状態に彫られている。珍しい。(参照 画像5) 
            
経 過
 96年12月1日 取壊された家屋の道端に一組の箱子型の門墩が放置されていた。(参照 画像2)一つの門墩の正面は厚いセメントに覆われていて図柄は見えなかった。
 同月7日(土) 大三輪車で取りに行きました。門墩が転がった少し先の路上で若い母親と女の子がボール遊びをしています。
 門墩を三輪車に乗せる前に胡同の景色を写真に収めようとシャッターを切りました。突然母親が私を指差して、何か叫びながら走り寄って来るではありませんか。
 「我々を写した。けしからん!」と言っている様です。私は「あの門墩を写した。」と答えました。しかし彼女の叫び声は大きくなるばかりです。(この時留学して1年半ばかり過ぎていたので私は通訳のA君は連れずに収集活動をしていました。)
 付近の家々から5,6人の人が出て来て彼女を加勢します。私のカメラを指して「フィルムを抜いて出せ!」と言っているようです。
 カメラを見ると25枚写しています。
 私は「解かった!しかし今まで写した24枚はあんたには関係ない。わしの物だ!フィルムはここでは出せない。写真屋に行って現像して、あんたのネガだけここで破って捨てる!」と言いましたが通じない!相手の気勢は一向に収まりません。
 頭に来て「警察に行こう!警察で話そう!」と叫びました。しかし相手は動こうとしません。益々猛り狂い何事か皆で叫びます。
 そばの三輪車に寄りかかって成り行きを見ていた四人の緑化工人達のリーダー何氏が私と彼女の間に割って入り、彼女に何か早口で話し、私に向かって「カメラを渡せ。カメラ屋に行って来る。帰ってくるまでここを離れるな。」と厳しい顔で言い、私の自転車に乗って立ち去りました。
 私は彼女達と一緒に居るのは気が進まないので、さっきの門墩の所に行き、高さ、巾、奥行を採寸し記録し、門墩の各面の模様を記録用紙に書き取ったりした。
 すると少し離れた所にいて、事の成り行きを見ていた人の群れから、40過位の大柄な女性が一人私の側に近寄って来た。色の黒い丸顔です。
 「貴方はここで何している?」「私は北京語言学院の留学生で、北京の門墩を研究しています。北京の門墩は日々少なくなっています。以前からこの門墩はここに抛って有る様なので、学院に持って帰って保存する為に採りに来ました。」と言って、持っていた門墩の写真集と手書きの門墩小論文を見せました。何人かが寄ってきて一緒に見て、私に質問します。早口なので何を聞かれたのか良く解かりませんでした。
 そこへ、何氏が息を弾ませて自転車を飛ばして帰って来ました。私は問題のフィルムを彼女に見せ、「よこせ。」と言う彼女の手を払って、フィルムをクシャクシャに握りつぶし靴で踏みつけました。事件は一件落着。
 “今日は駄目だったか!”と落胆して帰り支度に掛かりました。すると先ほどの大柄な婦人が「かまわんから、その門墩を持って行け。」と言うではないですか。「本当?!」と言って急いで門墩を車に積みました。
 婦人が帰ろうとする私を引き止めて「貴方は中国人をどう思う?」と問うのです。私は「中国人は外国人に大変親切だ。時に不親切な人も居るが………。良い人も居るが、悪い人も居るのは何処の国も一緒でしょう。」と答えると、「中国には良い人が多い事を覚えておいてくれ。そして門墩の保存に頑張ってネ。」と、にっこり笑って手を差出しました。大きく温かい手でした。強く握り返しました。
 翌日は日曜日 セメントの下の模様が何か気になって早朝から門墩に水を掛け汚れ落としに掛かりました。門墩の上の蓮の葉の伏せた彫刻は全く傷無しの見事なものです。両側面の模様は翻帯に結ばれた書物、巻物、方勝の模様は見て取れるもののかなり風化しています。一つの正面はよく見ると翻帯に結ばれた古琴です。ほとんど無傷です。もう一つは厚くセメントが塗られ模様は見えません。本体を傷付けない様に釘と金槌で、慎重に少しずつセメントを落とします。同じように翻帯に結ばれた碁盤と海棠の花の立派な彫物が全貌を現したのは、正午過ぎでした。(参照 画像4)

 

【後で気付いた事】
 やはり門墩はその家の社会的地位を示す、住人には大切な物なのです。この家の住人は祖先から引継いだ門墩が文化大革命の時、紅衛兵の眼に留まって壊されないようセメントで正面を覆ったのでしょう。北京旧城内でセメントで覆い隠され、その後一部を落とした門墩を幾つか眼にしました。

 

 【整理番号№11】 北京式箱子型有獅子門墩 
                  (高:73.0 巾21.5 奥行:78.5)
              旧所在地:北京市東城区土儿胡同9号門口

     画像1:両姿
     画像2:家屋の門口に門墩の基座と共に置かれていた。
     画像3:左側門墩の正面 蓮・蒲等の水草の下に雄雌の鷺が居る。
         鷺鷥臥蓮(夫婦恩愛)の吉祥図
     画像4:左側門墩の内側 松の樹の下に鶴と鹿が居る。
         六合同春(天下泰平)の吉祥図
     画像5:左側門墩の外側 馬が吐出した雲の中に“日”の字がある。
         馬上高昇(昇進)の吉祥図

特 徴:①硬い材質の石で破損が少ない。(上の獅子は顔面を破壊されてい 

            る。)
     ②箱の部分の周囲に縁取り模様が彫られている。
     ③張作霖に関係する一族の人の家の門墩
         
経 過
 96年7月9日 北京旧城内の門墩撮影開始日です。旧城内の西北の西海西沿2号の箱子型無彫飾門墩が撮影第1号でした。続いて安定門地区花園前巷→霊光胡同→国子監街→方家胡同と門墩を見て、交道口東大街を南に横切って入った土儿胡同の角の門口に立てかけてありました。(参照 画像2) 獅子の背中から尻、後足の彫が素晴らしい。側面の鹿と樹、正面の草の浮彫りも立派です。写真に収めました。
 翌年1月25日(土) 国子監街の首都博物館を見学後、気になって再び通りかかりました。折り好く中から父親と女の子が出てきました。
 私は思い切って「これは貴方の物ですか?」門墩を指差して言いました。
 「そうだ。これが欲しいのか?」「そうです。北京の門墩は日々少なくなっているので、集めているのです。不要なら下さい。」「これは立派だろう。昔から我が家の門に有った物で、引越したので、もって来た。私の家は………。父は清華大学の……教授だった。獅子の頭は文革の時叩き壊された。父も殴り殺された。私の祖先は…………。…………。」段々彼の口調が早くなります。
 私が彼の話が聞き取れないでいるのが解かったのでしょう。彼は一旦家に入り、タイプで打った5~6枚の便箋を持って出て来て私に見せます。便箋には赤い字で内蒙古政府〇〇〇〇報告と印刷されていました。日付は50年程前でした。その中の7~8人の名前の一つを指差して「この人は私の………で。…………。……………。」熱心に説明してくれます。残念ながら全く聞き取れません。
 話が一段落した所で、私は恐る恐る「門墩を分けて下さい。」と切り出しました。
 「幾ら出す?」「??????」「500元以下では駄目だよ。」「200元で……。」
 最後300元で話がまとまりました。
 
 翌日 タクシーで何氏達と三人で引取りに行きました。この時私は「門墩の正しい由緒を知りたいので、昨日の通知書をコピーさせて欲しい。」と頼みました。彼は真顔になって顔を横に振って「駄目だ!駄目だ!」と言いました。
 しかし、その結果筆談と何氏の通訳で以下のことがわかりました。
  1、彼の母の兄弟の妻は張作霖の娘の一人。
  2、彼の祖先は満州族の王族(貴族?)
  3、王族(貴族?)でないと門墩に回紋は彫れない。
  4、門墩のあった所は旧内左二区馬大人胡同9号(現東城区景山区育群胡同)
 

 整理番号№13】 北京式箱子型無彫飾門墩
                  (高:50.0 巾14.5 奥行:47.0)
              旧所在地:北京市西城区小盆胡同1号門口

    画像1:両姿
    画像2:家屋の門口に置かれていた。
    画像3:右側門墩の正面
    画像4:右側門墩の内側
    画像5:右側門墩の上面

 

特 徴:①箱と錦鋪の線彫りの縁取り以外の彫刻は無い。

 

経 過
 96年12月1日 屋敷の脇口の側に立てかけてありました。(参照 画像2)この家が表通りで駄菓子や日用品を売っているので、この店の人に「脇に置いてある門墩はこの家の物ですか?」と聞いても返事は「知らない。」
 その後通りがかった都度、何度か家の人や近所の人に聞きましたが、「誰のものかわからない。長い間置きっぱなしだ。持って行ってもいいだろう。」との返事でした。
 翌年3月16日№14を引取りに来たついでに運んできました。
 
 【後日思いついた事
 門墩の調査を始めた頃には、この門墩のように図案の彫刻の無い門墩は、他の模様の彫刻のある物に比べて数が少ないので、文革の時模様を削り取られた物かと思って居ました。しかし、門墩の表面を見ると模様を削り取った跡は見当たりません。
 当初から図案は無く、無彫飾が完成品だったのです。そこで図柄を彫った門墩を備えた家より社会的地位の低い人の家に許された物だと推測し、政府関係でない一般人で一番地位の高い人、即ち朝廷に協力した大富豪の家に許された門墩との仮説を考え着きました。

 

 門墩を記念に一組持帰りたいと思っても、重量、梱包、運賃等で私には無理でした。
 拓本なら大小は実物と同じで、模様は写真より鮮明に写し取れます。
 そこで北京石刻芸術博物館に1週間通って拓本を習いました。
 画像は拓本第1号です。
 現在は西安博物院に他の188幅と一緒に保管されています。

 

 

整理番号№16】 抱鼓型水中蓮葉房付鼓環門墩
                 (高:53.5 巾20.0 奥行:59.0)
              旧所在地:北京市東城区永恒胡同30号筋向い路端

     画像1:両姿
     画像2:路端の門墩と直班の人
     画像3:右側門墩の正面 鼓座に雲頭模様、基座に霊芝(不老の霊菌)

                が彫られている。
     画像4:右側門墩の内側 太鼓の部分は開花した蓮の花、それを受ける

         鼓座は水中に生えた蓮の葉、水中には一匹の魚が泳いでいる。
          門墩全体が“連々有余”の吉祥図になっている。
     画像5:右側門墩の上面 後の軸座に四角い穴と小さい丸い穴がある。
         この門墩は二度使用されたことの証拠。
          太鼓の両側の皮を止める釘や太鼓を持上げる鼓環が磨耗して

        消えている。相当年月を経た証拠。

 

特 徴:①基座が水中に生えた蓮の葉になっている。
       後に北京の門墩の基座が須弥座に四角の錦を被せた立派なものに

      変化する以前の古い様式を持つ門。
     ②石材は鵞卵石
     ③太鼓に房の付いた鼓環が彫られている。
     ④相当古い物 門墩の太鼓の上の部分の磨耗具合からの判断
                      (参照 画像5)
          
経 過
 97年4月13日 東城区安定門地区の門墩調査撮影の時、道端に丁寧に並べて置いてあるのを見つけました。(参照 画像2) 二つとも門墩の側面には彫物は見当たりません。正面には鼓座に雲頭模様が、基座には霊芝が彫ってあります。
 地面に着いている方の図柄を見たくて、起こそうとしますが手が滑って起こせません。近くで遊んでいる子供達に応援を頼みました。キョトンとして私の顔を見つめるだけ。私の中国語は聞き取れないのか?!(今で思うと模様を彫った内側を傷めない為に、わざわざ地面に着け、彫物の無い外側を上にして置いてあったのです。持ち主の門への愛着がなせる深い配慮だったのでしょう。当時はそこまで気が付きませんでした。)
 “直班”と書いた赤い腕章をした男性老人と中年婦人が「何をしているのか?」と話しかけてきました。
 「私は北京語言学院の留学生です。門墩の研究と保存をしてます。」と答えて、門墩の写真集と手書きの小論文を出しました。
 そして「この門墩は何処の門にあったのですか?誰の物ですか?」と聞きました。筋向いの家を指して「あの家の人の物だ。要るなら話してみてあげよう。」と言って老人が先にたって、その家に案内してくれました。
 中から出てきた中年の婦人は、老人の話を聞いて「以前この門を改造した時、要らなくなったのであそこへ置いている。要るならあげるから何時でも持っていったらいい。」と言ってくれました。
 
 4月25日 大三輪車で取りに行きました。黙って持って帰っては悪いと思い、門を叩きました。中から白髪の小柄で上品な老婆が出てきて「今、私しか居ない。門墩を人に渡す話は聞いていない。」と言います。前日の若奥さんとの話を説明しても「私は聞いていない。」の一点張りです。
 「この門墩は又使われるのですか?」と聞くと、「もう使わないだろう。でも、私は幼い時からあの上で遊んできた。想い出の多い物で手放しがたい。」としみじみと言われ、これには私も困りました。
 私は「門墩は北京の文物だから、誰かが保存しないと…………。………」と長々と拙い中国語で話しました。
 そして「貴女のお気持ちは解かりますが、これで分けて下さい。」と30元差し出しました。「お金は要らないの……。」と受け取って貰えません。
 私は嫌がる老婆の割烹着のポケットにねじ込みました。
 暫くして「では、好きにしな……。」と力なく言って、老婆は門の扉を閉めました。
 私達は急いで門墩を大三輪車に乗せ、その場を去りました。

 あの時私のしゃべった中国語は、老婆にはほとんど聞き取れていなかったと思います。ただ、年を取った外国人が何か熱っぽく訴えている事だけが、わかってもらえたのかな???

 約2年半の門墩調査中これと似た例=若夫婦OK,老人NOがあり、幾つか立派な門墩の保存の機会を失いました。
 それにしても今思うとこの老婆には酷いことをしたなと思います。せめて門墩と一緒に記念写真でも撮って渡しておれば………。少しは気が晴れたでしょうに。あの時はそこまで気が回りませんでした。

 

 記念に採った拓本の第二号です。
  現在は他の188幅と一緒に西安博物院にあります。

【整理番号№18】 北京式抱鼓型有獣吻頭門墩 
                 (高:57.0 巾22.0 奥行:78.0)
            旧所在地:北京市西城区南楡銭胡同10号

     画像1:両姿
     画像2:門(北から南東を写す。)
     画像3:左側門墩の正面
     画像4:左側門墩の外側 太鼓の部分が蓮花でなく、大きな四花弁の

                花模様。
     画像5:左側門墩の上面

 

特 徴:①門墩の太鼓部分の外側に四花弁の花模様が彫られている。
     数少ない例。
       
経 過
 96年10月5日 都市開発の家屋取壊し予定に指定されているこの辺り一帯の門墩所在地図作りと写真撮影をしていた時、雨に濡れて濃い暗灰色をしたこの門墩は、軒先にぶら下がった鳥かごと共に広い門にしっとりとした雰囲気を醸し出していて、印象的でした。(参照 画像2)

 翌年5月16日 通りかかると既に家屋が取壊され、門のあった辺りの瓦礫の山の上に左側の門墩が一つだけ転がっていました。
 そこで遊んでいる四人の子供達に「右側の門墩は何処にある?」と聞きました。「知らん!」と言って取り合ってくれません。辺りを探しましたが見当たりません。
 翌日17日 大三輪車で取りに来ました。車に積んで帰る途中何氏が向かいの家の門の中を指差します。見ると右側の門墩が転がっているではないですか!
 中に居た主人に「これは片方だけだが要る物ですか?」と聞くと、「要る!」とつっけんどんな返事です。仕方なくそのまま帰りました。

 真夏の8月8日 この胡同を自転車で通りかかると、この前の家の前に右側の門墩が無残な姿で転がっています。5月に門の中にあった時は完全な姿だったのに、今は前半分太鼓部分しかないのです。その辺りを探しましたが後半分の軸座はついに見当たりません。あの時分けてくれていれば、完全な姿で一組になったのに、悔しいかぎりです。
 二日後の8月10日 大三輪車で№21、22と一緒に持ち帰りました。

 

【整理番号№19】 北京式抱鼓有獣吻頭門墩
                  (高:64.0 巾:27.0 奥行:76.0)
              旧所在地:北京市西城区后泥窪胡同9号

     画像1:両姿
     画像2:門(門扉は鉄製に取り替えられている。)
     画像3:右側門墩の正面 太鼓に彫られている花は朝顔。 
     画像4:右側門墩の内側 太鼓には蝙蝠・桃・鹿の“福禄寿”、錦鋪には

                八宝吉祥図の蓮の花が彫られている。
     画像5:右側門墩の正面下半分 鼓座に“草龍”、錦鋪に八宝吉祥図の

                一つ勝利幢が彫られている。

 

特 徴:①太鼓の図は内側は“福禄寿” 
     ②鼓座の正面の図は龍が草で構成されている“草龍”
     ③獣吻の顔面は削り取られている。
     ④錦鋪には八宝吉祥図が彫られている。
       
経 過
 96年10月6日 この地区の調査をしている時に見つけました。門扉は鉄製に取り変えられていました。門墩は扉の軸を支えると言う、本来の役目から解放され門の飾りとして残されていました。獣吻の顔面は破壊されていますが、それ以外は無傷で、彫りもしっかりして堂々たる風格を具えた立派なものです。
 翌年5月15日 赤いレンガが道端にうず高く積まれ、門をセメント平屋根の商店に改造する工事が進められていました。門墩は少し離れた所に放り出してあります。傷んでいません。
 居合わせた中年の男性に聞くと、「門を物売り小屋に改造している。その門墩は要らなくなった。売ってもいい。」との返事です。250元で話をまとめ、100元の手付けを渡して別れました。
 二日後5月17日 取りに行きました。男性が言いにくそうに「兄弟が売ってはいけないと言う、もう少し出してくれないか?」と言います。
 困ったなと思いましたが、「先日話はついている。手付けも渡してある。駄目なら手付けを200元にして返してくれ!」と押し切って、残りの150元を渡して納得してもらいました。
 №04の左側、№18の右側と一緒に二台の大三輪車で持帰りました。車を二台準備したのはこの門墩が一般のものより一回り大きかったからです。

 

【整理番号№21】 門枕石 
                   (高:18.5 巾:23.0 奥行:57.0)     
               旧所在地:北京市西城区南豊胡同18号

   画像1:南豊胡同18号の門
   画像2:門枕石の両姿 (この門枕は一般のものより一回り大きい。)

 

経 過
 門墩のことを調べていると、“門墩は門から道路側に突出ている門枕の先を飾る事からスタートし、更にそれが少しずつ上に伸びて出来上がった”と推測されます。また、北京の四合院の殆どの門はこの簡単な門枕で作られており、門墩を備えた四合院は少数です。(私の観測では門墩のある邸宅が2割、門枕が八割と推測しています。)
 以上の二点を理解して貰うには門枕石と門枕木の実物を収集する必要があると思い探していました。
 97年4月20日に写真に収めていた門枕石を備えた家が、その年の7月に引越し空家になっていることがわかりました。
 8月10日 大三輪車で取りに行き、瓦礫の中から引っ張り出して、№18の右側、№22と一緒に持帰りました。

 

【整理番号№22】 門枕木
                 (高:14.0 巾18.8 奥行:46.5)
               旧所在地:北京市西城区南半壁胡同23号北隣

    画像1:南半壁胡同23号北隣の門 
        (既に家屋は取壊され、この門だけが残っていた。)
    画像2:左の門枕木の取り付け状況 
        (門扉は取り去られて無い。丸太は直径14cmもある閂で、閂として

            使用するときは引き出して写真のように左の壁の穴に差し込めるように

            作ってある。使用しない時には右の壁中に収納される。)
    画像3:門枕木の両姿 (両側の門枕木を押さえる敷居がくっ付いて要る。)

 

経 過
 97年7月20日 既に屋敷は取壊され、門扉も無い門だけが門枕木と門の枠を残して立っているのを見つけました。後で現状がわかるように写真に撮りました。
 8月10日 大三輪車で取りに行きました。門の周りのレンガを壊し、門の木組みごと外して持ち帰る計画です。事前にこの計画を何氏に話し、ハンマーや鋸等の必要な用具を準備してもらいました。
 現地に着いて門を調べると、門扉以外、鴨居・敷居・柱・頬立・伏兎・閂全てが完備しています。ばらして持って帰ればこれらの部材で門が復元できます。取り外す前に各部分を詳細にメジャーで計り、図面に寸法を書き取りました。リーダーの何氏は三人の仲間に指示し、まず両側の門枕木の脇のレンガを壊しにかかりました。ところが昔のレンガとレンガ積みの工法は思ったより頑丈でした。やっと4~5段を壊しました。見ると敷居は15cmもレンガの中に食い込まれています。敷居も柱もビクともしません。上の鴨居も同じように両側のレンガに差し込まれているようです。両側の柱は鴨居と敷居に差し込まれ嵌殺しになっています。これでは両側の硬いレンガの殆どを壊さないと枠組みの取り出しは出来そうにありません。
 何氏が「どうしましょう?」と言ったときには陽は西に沈みかけています。仕方が無いので両側の柱を鋸で切って門枕と敷居だけを取り出すことにしました。ところが、これまた両側の木が硬い木で、鋸でなかなか切れずに思ったより時間が掛かりました。
 この取り外し作業のお陰で門の構造の理解が深まりました。
 №18の右側、№21と一緒に持帰りました。

 98年2月のある朝 展示品の点検をして廻ると、この門枕木が見当たりません。事務所の人に頼んで「持っていった人は返してください。」の張り紙を出しましたが、効果がありませんでした。詳細な図面が手元に残っていて復元可能なので、収蔵リストに載せたままにしています。

 

後日わかった事
 中国の住居が防衛機能を重視している事は理解していましたが、今回この項をまとめながら自分の理解が浅かった事を再認識しました。
 もし97年の段階で理解しておれば、あの時人員を増やすなり、早朝に出発するなり、もっと十分な準備をすべきだったのです。昔の工人が四合院で防衛上最も工夫を凝らしたのが門なのです。今改めて門の写真を見ると、この門は現代の赤いレンガではありません。昔の硬いレンガで米の糊で接着した万里の長城並みのレンガ積みです。これにハンマー一本で挑んだ私達を、あの時昔の工人達は天上であざ笑っていたに違いありません。

 

【整理番号№24】 北京式抱鼓型有獅子門墩 
                   (高:68.0 巾20.0 奥行:60.0)
               旧所在地:北京市西城区跨車胡同11号
                      この南隣が著名な画家斎白石の故居

     画像1:両姿(左右とも獅子は胸部から上が無惨に破壊されて無い。)
     画像2:門
     画像3:右側門墩の正面 

                   獅子が残っておれば堂々とした風格のある門墩だったでしょう。
     画像4:右側門墩の内側 

                    この花は良く見かけるが、何の花か不明
     画像5:右側門墩の外側 

                    この花も良く見かけるが、海棠草?

 

特 徴:①硬い石材
         
経 過
 96年10月6日 この辺りの調査をしている時見つけ、写真に撮りました。この家の南隣は有名な画家斎白石の旧居です。斎白石の旧居は北京市文物保存単位に指定され取壊しを免れています。斎白石の旧居の門墩は箱子型有彫飾です。
 この家の北隣の門墩は抱鼓型有獣吻頭で、太鼓部分に彫られた動物は虎に似た可愛い物で珍しい門墩です。この家の人とは親しくなり「引越す時は電話してやる。門墩を取りに来い。お前にやる。」と言ってくれていました。
 97年9月中旬 宿舎に電話がありました。「明日家が取壊される。門墩が欲しかったら、明日来い。」「明日、必ず行きます。」と約束しました。
 翌日行って見ると二軒とも既に取壊され整地も済み、跡形もありません。狐につままれた様な気持ちでいると、一人の小柄な作業員が近寄って来て「お前は門墩を取りに来たんだろう?」と問います。「そうだ。」と答えると、「ついて来い。」と先にたって歩き出します。
 近くの資材置き場に着くと、この門墩が目に入りました。再び狐に抓まれた様な気持ちでした。てっきりもう一つ北隣の家の有獣吻の門墩だと信じていたからです。
 そこへ握手を求めて別の小太りの作業員がやって来ました。「以前門墩を売ってやっただろう。忘れたか?」ニコニコしながら言うのです。暫く思い出せませんでした。去年10月末に近くの四合院を作業員宿舎にしていて、そこの門の箱子型有獅子門墩(№2)を100元で売付けた男でした。あの時「他にもあったら連絡するから名刺をくれ。」と言われ名刺を渡したことを思い出しました。「これは良いものだろう。幾ら出す?」「上の獅子の破損はひどい。後の軸座は壊れている。100元は出せん。50元だ。」「俺達は古い友達だ。いいだろう。次に好い物が有ったら、はずんでくれよ。何時取りに来る?」とあっさり了解してくれました。
 その週の日曜日9月21日 大三輪車で№25と共に持帰りました。
 北隣の珍しい門墩は、この世から姿を消してしまった様です。残念!

 

【整理番号№27】 北京式箱子型有獅子門墩 
                   (高:51.0 巾:17.5 奥行:62.0)
               旧所在地:北京市西城区辟才胡同25号

   画像1:両姿
   画像2:門 

               大きな街路樹の木陰が涼を呼ぶ通りでした。
   画像3:右側門墩の正面 

               箱には蓮と慈姑が生えた池、錦鋪には吉祥図“白猿盗桃”が彫ら

            れている。 
    画像4:右側門墩の外側

               箱には八宝吉祥図の勝利幢、錦鋪には八宝吉祥図の宝瓶彫られ

             ている。
   画像5:右側門墩上の獅子 

        何故こんなに鋭い眼で睨みつける?

 

特 徴:①獅子が屋敷から出てくる人を睨んでいる。普通は来訪者の方を向い

      ている。
      
経 過
 97年4月5日 以前からこの門墩の存在は知っていましたが、この日初めてゆっくり観察してこの獅子の鋭い視線に気が付きました。普通獅子は邪気の進入を防ぐ為に来訪者の方を向いています。ところがこの獅子は首を捻って屋敷から出てくる人を厳しい眼で睨みつけています。珍しいので当日は獅子だけ写しました。現像された獅子は人を射すくめるほど厳しい眼をしています。(参照 画像5)
 97年9月19日 この地区の家屋取壊し公告が出た時、門をカメラに収めました。19日と20日でこの地区にある門墩11組全部を撮影記録しました。
 工事事務所を見つけたので責任者を訪ね、取壊し対象家屋で保存すべき門墩6組のリストを渡し、その保存に協力をお願いしました。中でも辟才頭条1号の箱子型無彫飾とこの門墩は是非保存したいと申し添えました。
 1カ月後 10月18日 通りかかると既に家屋は取壊され門の屋根は壊されています。事務所を訪ね責任者の李常有氏に「無人の様だが門墩を持って行っていいか?」と訊ねると「かまわん。持って行け。」との返事です。
 翌19日 大三輪車で取りに行きました。先ずツルハシで敷居を壊しに掛かりました。
 後方から「誰の許可で、そんな事をしている!」と大きな声が飛んできました。振り返ると女の人が道の向こう側からこちらにゆっくり歩いて来ます。
 私が「事務所に話してる。」と言うと、「それは誰だ!」と詰め寄ります。私は責任者の名前が思い出せないで「チョッと待って。」と言ってカバンの中の名前を書いた紙を探しました。なかなか出て来ません。
 周りに人だかりが出来ます。その中から母親と若夫婦らしい三人が出てきて、「これは私の物だ。何をする!」と怒鳴ります。
 私はカバンの中を探しながら「チョッと待って。」を繰り返すしかありません。紙を探し当て李常有氏のサインを見せると、口調は柔らかくなりました。
 しかし「我々の物だ。勝手に持って行かさない。」と言います。私は門墩の保存の必要性を話してから「100元で売ってくれ。」とお願いしました。
 「一つ100元か?」「いや一組だ。」「それは駄目だ。300元でも駄目だ。」と言うので、私はこれは駄目だなと思って紙をカバンに入れ、帰り支度を始めました。
 すると脇に立っていた何氏が突然三人に向かって話し始めました。「彼は留学生で、北京の門墩の研究と保存をしている。我々は北京語言文化大学の者だ。これは貴方達ももう使わない、要らない物だろ?分けてくれ。」どうもこんな事を話してくれているらしいのです。
 私は打合せもしてないのに、この何氏の突然の行動にビックリして成り行きを側で、ただ黙って見守っていました。
 しばらくやり取りがあって、三人が相談を始めました。男が私に「100元で持っていけ!」と言いました。女は反対の様でした。
 多くの観衆の見る中、喜こんで門墩取りはずし工事にかかりました。取外しがすんだ時には、観衆も少なく問題なく三輪車に乗せることが出来ました。
 途中近くの辟才三条の路端に以前から捨ててあった参考品№5(注)を乗せて帰りました。

 

     (注) 参考品とは収集品の中で状況が良くない物若しくは既に

               似た収集品があって、収集の価値の低い物をこう名付けて

               います。
         他の収集品の品位を下げない処置です。
         全部で№7まであります。

 

【整理番号№28】 北京式抱鼓型有獣吻頭門墩 
                 (高:59.0 巾:21.5 奥行:65.5)
              旧所在地:北京市西城区南太平胡同13号

    画像1:両姿

        土木作業員の現場宿舎になっていた四合院中庭
   画像2:門
   画像3:右側門墩の正面 

        太鼓の獣吻頭部も下の宝相華も破壊されている。
        錦鋪の桃の葉が美しい。
   画像4:右側門墩の内側 

        太鼓の獅滾繍球の獅子が可愛い。
   画像5:左側門墩の上面 

        獣吻頭後方の宝相華が美しい。

 

経 過
 97年8月8日 西城区樹蔭胡同2号の門に箱子型門墩があるではありませんか!“ハハァーン。また、売付けようとしてるナ。”と思いました。何故なら、ここは、以前私が買った整理№02の箱子型門墩があった所です。中庭に入ると皆仕事中らしく無人です。壁に片方の門墩が立掛けてあります。入口の門墩もこれも正面と上面の傷みがひどく収集の価値はありません。だまって立ち去りました。
 2ヵ月後10月11日 通りかかると門の門墩がありません。中に入ると、片側の門墩は右の壁に立掛けたままで、まだ置いてあります。
 「外の門墩はどうした?」と聞くと、「誰かが持って行った。」との事です。見回すと片隅に新入りの丸い門墩があります。(画像1) 獣吻の頭は完全に破壊され、須弥座の最下段も風化が激しいものの、それ以外は傷みは少なくそこそこの物です。見ているうちに、或門墩を思い出しました。
 それは近くの南太平胡同の四合院(画像2)にあったものです。この付近一帯を調査撮影をした時眼にした物に間違いありません。その時の印象より数段良く見えます。私は嬉しくなりました。一旦無くなったと諦めていた門墩に再会出来たのです。
 既に5~6人の作業員がニコニコ顔で話し掛けて来ます。彼らは私が門墩を収集しているのを知っているのでしょう。彼らに「これは何処にあった?」と聞きました。「今は………が居ないから駄目だ。」と言います。別の一人が壁に立掛けている箱子型を指して「これも買って行け。」と話し掛けて来ます。決定権者が居ないらしい。「又。来る。」と言って他の調査に行きました。
 その日 宿舎に帰ってから調査済みの門墩写真集をめくって見ると今朝見た門墩は思っていた南太平胡同の門墩に間違い有りませんでした。
 
 10月下旬 門を潜り中庭に入ると、数人の工員が居ました。一人が部屋に向かって何か叫びます。小柄な男が笑顔で手を差し出しながら近づいて来ます。私も笑顔でその手を握りました。
 男はいきなり「幾らで持っていく?」と聞きます。私も一言「一組50元。」と答えました。男は手を放して「それは安過ぎる。これもやるからもっと出せ。」と壁に立掛けた門墩を指差します。「それは片方だけだし、正面の模様が傷んでいる。何処にあった物かもわからんだろう。それは価値無し。マアーそれも含めて1個30元。全部で90元。我々は古い友達だから。」と答えると、それで話はあっさり成立しました。

 11月2日 大三輪車で三個の門墩を持ち帰りました。
 この時も何氏のお蔭でトラブルが大きく成らずに済みました。
 門墩を車に乗せる段になって細身の背の高い男が「手伝おう。」と手を出そうとします。私は「我々は五人も居る。危険だから、不必要だ!」と声を荒げて叫びました。男から微かに酒の匂いがしていました。最後の1個を乗せる時、その男が手を添えました。門墩を乗せ横倒しにした時男の手が一番最後でした。「アアッ。」と叫んで左の薬指を右手で握り私を見下ろします。
 「さっき手出しは不要といった。お前が勝手に手出しした。俺は関係ない!!」と私は男を睨み返しました。仲間が騒ぎ出します。私は彼の手を取って指先を見ました。内出血は無い!中指を親指で押さえてみました。「ウウッ。」と言う声に迫力がありません。
 「彼が勝手にした事だ!我々は関係無い!サアッ。行こう。行こう!」と私は先に自転車を押してその場を離れました。後に付いて来たのは、先に門墩を積んでいた一台だけです。残りの一台と何氏達三人の緑化工人はわいわい叫ぶ人垣に囲まれて身動き出来ないようです。
 私も心配で少し離れた所から成り行きを窺がっていました。一人の男が人垣から離れ、こちらに来ます。取引した小柄な男です。「医者に行かすから金を出してくれ。」と言います。「我々の問題では無い。彼の問題だ。」と拒否しました。
 彼は仲間の所へ引き返し、暫くしてまたやって来て言いました。「俺が片付ける。気にしなくて好い。もういいから行ってくれ。又会おう。」
 私は帰りの道々何度も「えらい迷惑を掛けてすまなかった。」と謝りました。その都度何氏は「何も無い。何も無い。」とい言って黙々と三輪車の後を押していました。
 未だ人垣に囲まれた約半時間、何がどうなったのか私は知りません。

 

 

 土木作業員宿舎に使われていた四合院の門。
 整理番号№02の門と見比べて下さい。門に置かれた門墩が入れ違ってます。
 以前は箱子型有獅子門墩が有ったのが箱子型有彫飾門墩に変わってます。

【整理番号№29】 抱鼓型房付鼓環門墩 
                 (高:51.0 巾:16.5 奥行:52.0)
             旧所在地:北京市西城区柳巷42号

    画像1:両姿
   画像2:門 (北から南西を写す。)
   画像3:右側門墩の正面 

        太鼓の胴に鼓環に付けられた房が見える。
        基座は簡素で錦鋪も掛けられていない。
   画像4:右側門墩の内側 

        基座と軸座一体の模様が彫られている。
     画像5:右側門墩の外側 

        何も彫られていない素面。自然な鑿跡が美しい。

 

特 徴:①基座が須弥座でなく、古い型の門墩。
     ②普通門の内側になる軸座には模様はない。この門墩の軸座には

     彫飾りがある。

 

経 過
 97年4月5日 この辺りの調査をしている時見つけました。小さくて他の物とは少し変わった可愛い門墩だと感じました。太鼓を乗せた基座が須弥座でなく簡素な箱形ですし、太鼓には房のついた鼓環(太鼓を持ち挙げる時棒を挿す環)が彫ってあります。
 11月20日 付近を通りかかると、辺りの多くの家屋が開発の為取壊されています。慌てて来てみると、この家も既に取壊されています。門の辺りは瓦礫の山で、その上に垂木等が持ち出しやすいように揃えて積まれています。左側の門墩は瓦礫と材木の間に放って在ります。右のは門柱の側の瓦礫を取除くと頭を出し、本来の場所に健在です。どちらも破損を免れています。
 翌21日 大三輪車で持帰りました。

 翌日この門墩を洗っていると、扉の回転軸を支える軸座の内側にも何か彫られています。良く見ると太鼓を乗せた前の基座の模様に対応する模様です。(参照 画像4) 殆どの北京の門墩ではこの部分には彫物は無いのです。その意味でも貴重な門墩です。(天津でこれに良く似た門墩を数組見かけました。この屋敷の主人は天津の出身者ではなかったのか?)

 北京の門墩の基座の殆どは、私の観察では95%は須弥座に錦鋪を敷いた立派な台座に作られています。この簡素な基座の門墩は数少ない例外です。
 また、北京では太鼓の胴の部分には獅子の全身像か龍の子の獣吻の頭のいずれかが着いています。そしてその前後には宝相華など各種の草花が彫られるのが一般的です。ところがこの門墩にはこれらの飾りは無く、太鼓を持ち運ぶ為の鼓環だけが彫られています。(参照 画像3) 上の丸い部分が太鼓である事を証明する貴重な門墩です。
 この門墩は誰かがきらびやかな北京式門墩を作らせる以前の古い様式を示す貴重な門墩の一つなのです。

 

  この“誰か”を私は明の第三代皇帝永楽帝時代に、北京で遷都受け入れ準備を命じられた責任者だろうと推測しています。いずれ推測の根拠をご披露します。

 

 

 抱鼓型門墩の丸い部分は名前の通り太鼓だった事を証明する写真を紹介します。
 房付の鼓環と両側の皮を止めた鼓釘がはっきり彫られています。
   宣武区儲庫営胡同33号の門の脇に置かれている門墩。
                          

 門墩の上に太鼓を置いたのは“人が訪問した事を知らせる太鼓を門前に置いた型”だとする説も有ります。

 

【整理番号№30】 北京式抱鼓型有獅子門墩 
                 (高:59.0 巾:25.0 奥行:59.5)
             旧所在地:北京市東城区宝鈔胡同113号

    画像1:両姿
    画像2:現在の門の隣の鉄格子がはめられ、下が赤レンガの部分が以前

        の正式な門。現在は部屋にして別の一家が住んでいる。
              (西から東北を写す。)
    画像3:左側門墩の正面
    画像4:左側門墩の内側 
         三種類の樹木が彫られている。樹木の種類は不明。
    画像5: 左側門墩の上面

 

特 徴:①太鼓の両側の皮を止める鼓釘が無い。北京では極めて珍しい。
     ②獅子と宝相華が壊されている。獅子がこれほど徹底的に壊されている
     のも珍しい。)
     ③正面の鼓座の唐草?熨斗?の彫刻が素晴らしい。)

 

経 過
 97年11月27日 北京旧城の北部、什刹海の側に聳え立つ鐘楼・鼓楼の東一帯を調査している時、入口の脇に置いてあるのを見つけました。(参照 画像2) 
 中から出てきたお婆さんや前を通りがかった人数人に聞きましたが、誰のものか知りません。以前はこの屋敷の正門に在ったが、門を改造した(参照 画像2)時からここへ置きっぱなしだそうです。「持って行っても問題ないだろう。」との返事です。
 丁度清掃車が来て、道端の大型ゴミを収集し始めました。清掃員に「これ、私が持って行ってもいいか?」と訊ねると、「責任者に聞け!」といかめしい制服を着た太った人を指差します。その人は「こんな物を持って行ってどうするのか?」と問います。「大学に持ち帰って保存する。」と言うと、「お前が持って行ってくれると、手間が省ける。持って行け。いつ持って行く?」「ウーン???」と考えていると「とにかく、早いうちに持って行ってくれヨ。必ず持って行けヨ。」と念を押します。「ハイ、必ず。」と返事しました。
 翌日 大三輪車で持ち帰りました。
 大学への帰り道の途中、いつもの様にひと休みした時、この門墩をさすっていて鼓釘が無い事に気が付き、「この門墩には釘が無い!」と思わず口に出ました。タバコを吸っていた緑化工員皆が私の方を向きました。よほど大きな声だったのでしょうか?
 北京の1800余組の抱鼓型の中で鼓釘の無いのはこれで三例目なのです。大変貴重な門です。
 昨日あの小さい胡同に入るのがチョッと遅かったら、この門墩は清掃車にゴミとして収集されて、この世から無くなっていたかも知れないのです。記念すべき日です!

 

【整理番号№31】 抱鼓型水中蓮葉座房付鼓環門墩 
                 (高:50.0 巾:23.5 奥行:72.0)
             旧所在地:北京市東城区雍和宮大街175号

    画像1:両姿
   画像2:交道口北二条側出入口の路端
   画像3:左側門墩の内側
   画像4:左側門墩の正面 
   画像5:左側門墩の後面

 

特 徴:①門枕石の上に太鼓を乗せ、太鼓が転ばないように太鼓の

      前後に詰め物(鼓座)を置いた素朴な型。 (参照 画像3)   

     ②門枕石に、門枕より少し巾が薄い太鼓が乗っています。こうした

      抱鼓型門墩は河南省の洛陽市や開封市でよく見かけました。

       (参照 画像5)
     ③太鼓の側面に八花弁の蓮の花を彫り、下の基座に水中に生えた蓮の

      葉が彫られている。(参照 画像3)
     ④太鼓の胴に房が付いた鼓環が彫られている。(参照 画像4)
     ⑤軸座の後面にも雲頭の吉祥模様が彫られている。

 

経 過
 97年4月13日 北京旧城内東北に位置する孔子廟周辺の門墩を調査していました。国子監街から各胡同を南下しながら交道口北三条まで下がって来て、雍和宮大街に出る手前の家の門口に、この門墩が無造作に置かれていました。写真を撮りました。
 一年後9月6日 ここを再び通り掛かった時、筋向いの家が改修工事をしていて、その側に門墩が移されていました。工事をしている人に「この門墩はこの家の物?」と聞くと「向かいの家の物だ。」との返事です。
 向かいの家に入ると老人夫婦がいました。「前の門墩は御宅のものですか?」「そうだ。元々門はここに西向きにあった。大きな立派な門だった。そこへあったが、門を改修した時要らなくなった。祖先は………。………。…………」と二人が長々と話してくれます。由緒ある家系のようです。「フン。フン。」と聞いていましたが残念ながら全く聞き取れません。一段落した所で「この門墩はまた使われますか?」と切り出しました。「片方壊れているし。使い物にならんだろう。」「では、私に下さい。」「何にする?」「門墩は北京の文物で、保存するんです。」「なら、持って行きな。」
 翌日 日本語科の中国学生を通訳に頼んでタクシーで引き取りました。「要らない物だから、受け取れん。」と言う老人にお礼に50元払いました。

 翌日 洗っていて驚きました。これは大変貴重な門墩です。
 門墩を乗せている基座が須弥座でなく、非北京式の水中蓮葉様式の門墩です。その上、この門墩は水中蓮葉様式のごく初期の様式を伝えているのです。
 この門墩は直方体の前を水中に生えた蓮の葉に作り、その直方体の上に丸い太鼓を乗せています。そしてその太鼓が転げ落ちないように詰め物(鼓座)をしています。
 この門墩は、水中蓮葉様式の発生の過程を示す物なのです。

 

 

 

 同じ水中蓮葉様式の門墩でも整理№31の門墩とは違いスマートでしょう。
 北京旧城内の約30組の水中蓮葉様式門墩はこの様にスマートな型なのです。

     (宣武区大保吉巷30号の

            水中蓮葉様式門墩)

【整理番号№32】 北京式箱子型有獅子門墩 
                 (高:51.0 巾:15.5 奥行:48.0)
             旧所在地:北京市西城区柳巷23号

     画像1:両姿
     画像2:門

          中の家屋は既に壊され木材が再利用の為集められています。
          以前この門に在った門墩は持ち去られています。
     画像3:左側門墩の姿

          家屋が取壊される以前の姿。
     画像4:左側門墩の正面 

          写実的な菊
     画像5:左側門墩の外側 

          デザイン化された牡丹

 

特 徴:①正面の菊が美しい。特に爪を立てたら汁が出そうな葉が素晴らし

      い。
     ②獅子の頭部が欠けているのが惜しまれる。

 

経 過
 96年9月12日 北京旧城内西北端の地下鉄西直門駅の南西部一帯の調査をしている時見つけ、正面の菊が美しいので、写真に納めました。
 その後 この地区の工事事務所に所長を訪ね、この地区の保存価値の有る門墩の所在地一覧表を渡し、協力を頼みました。
 一年後11月2日 ここを通ったら家屋の取り壊しが始まっていました。道路に面した門楼とそれに続く倒楼はまだ姿を留めていましたが、門にあった門墩はありません。“所長に頼んだが無駄だったか”と無念に思いました。
 その後この門墩のことはすっかり忘れていました。
 98年9月のある日 知らない人から宿舎に電話がありました。なかなか聞き取れませんでしたが、「門墩を集めている岩本だろう?貴方が関心を持っている門墩を持っている。家に来ないか?」と言って住所と名前と電話番号を言っているらしい。自信がないので宿舎の服務員に電話を聞いてもらいました。
 約束の17日 タクシーで服務員のメモを頼りに北京旧城の東外、大使館の多い日壇公園の更に東の三階建ての住居群の中に訪ねる人が居ました。見るとこの門墩が壁際に有りました。200元でわけて下さいました。
 筆談を混じえて次の事が分かりました。
  1、私の事は工事事務所の人に言われて知っていた。

    (やはり頼んでおいて良かった。)
  2、門墩は愛着があって、持って来たものの自分が持っていても仕方が無い。
    保存して貰う方が好いと考えるようになった。そこで、私の事を思い出して

   連絡をくれた。
  3、あの四合院は清朝末期1910年代に建てた。
  4、文革以後、政府の指示であの四合院には血縁のない8家族が住んでいた。

 

【参考品番号№07】 北京式箱子型有獅子門墩 
                   (高:64.0 巾:19.0 奥行:67.0)
               旧所在地:北京市西城区楽全胡同

    画像1:左姿
   画像2:家屋取壊し跡に放っておかれた門墩

        東隣では家屋の取壊しが終わり、高いビルが建設中。
   画像3:左側門墩の正面 

        箱には蓮の花・葉・実と慈姑と蒲の穂が、錦鋪には “福在眼前”

       が彫られている。
   画像4:左側門墩の外側 

        箱・錦鋪の部分とも彫られている草は何か分からない。
   画像5:左側門墩の上面 

        限られた矩形の中に巧みに獅子が納められている。

 

特 徴:①上の獅子の彫刻が巧い。
     ②元の所在が胡同名しか分からない。家屋の門牌番号が特定できない。

経 過
 97年9月 19日と20日にこの地区の調査をした時、工事事務所長にこの地域の保存したい門墩一覧表を渡しておきました。
 1年後の10月10日 所長から「門墩が一つある。明日取りに来い。」と宿舎に電話がありました。日本語科の中国学生に同行を頼み、午後タクシーで工事事務所に行きました。
 持ち主にクレームを付けられた整理№27の一件を通訳の学生から話して貰うと、所長は「それは災難だったナ。今日は問題ない。」と近くの工事現場に案内してくれました。(参照 画像2) 「これは元々何処にあったのですか?」「分からん。」との返事です。私が以前調査した時には見かけませんでした。門の中の中庭に入る第二門にでも有ったのでしょう。
 結局正確な所在地が判らないので、収集品に含めず参考品としました。でも傷みのすくない好い門墩です。

 

第4章 枕石園シリーズ 終