第5節 開封市
開封城は北宋(960年~1127年)の都でした。門墩は宋の時代に発生したと言う説もあるので是非調査したい所でした。
1999年8月7~8日調査しました。
北宋時代の地面は度重なる黄河氾濫の土砂に埋もれ9mの地下。当時の建造物は“鉄塔”(琉璃磚造り・1049年建造)だけでした。
清代に形成された城内中心部は開発が進んでいると予想し、南西から城壁内に入り、包公湖の西部周辺を西門まで見て廻りましたが新しい建造物ばかりで門墩はありませんでした。
そこで西門から東の曹門までを調査し、抱鼓型門墩12組・箱子型門墩5組・門枕9組を見つけました。
抱鼓型に錦鋪を持つ門墩が4組ありました。
画像1:山貨店街16号の門 (画像をクリックして 大きくなりますヨ)
傷みが激しいけれど風格のある門です。
画像2:山貨店街16号の抱鼓型門墩
錦鋪の掛けられた台座も豪華な貫禄のある門墩です。
門の内側に入る門扉軸受にも鹿が彫られています。
門扉軸受に模様が彫られているのは珍しいです。
画像3:大坑沿街80号の門
これも傷みが激しいけれど風格のある門です。
画像4:大坑沿街80号の抱鼓型門墩
太鼓の縁に唐草模様・錦鋪にも模様が彫られ一番立派なものです。
画像5:清真寺(洪河沿街77号)
画像6:寺の前に収蔵されている門墩。
太鼓を乗せたが鼓座が珍しい四脚台座に作られています。
画像7:大坑沿街69号
画像8:ひどく痛んでいますが錦鋪を持つ門墩でしょう。
抱鼓型で模様が彫られているのが4組ありました。
画像1:省府后街41号
画像2:省府后街41号の門墩
傷みがひどくどんな模様が彫られているのか分かりません。
太鼓の胴には獣吻頭が彫られています。
画像3:山貨店街20号
写真ではどんな模様が彫られているのか分かりません。
画像4:草市街59号
画像5:草市街59号の門墩
門が改造され不要になり門の中の通路に放置された門墩。
箱型の台座に疾走する馬が彫られています。
画像6:西司門街5号
画像7:西司門街5号の門墩
門を店に改造して不要になった門墩が壁に立てかけられています。
抱鼓型で無彫飾のが4組ありました。
画像1:草市街79号
大変豪華な門です。豪邸でしょう。
画像2:草市街79号の門墩
太鼓が台座より薄く、古い形式の門墩です。
模様は判明しないが浅い線で何かが描かれているのでは無いかとも
思われるます?
画像3:理事庁街16号
画像4:理事庁街16号の門墩
画像5:草市街60号
画像6:草市街60号の門墩
画像7:省府后街35号
画像8:省府后街35号の門墩
先の3組の門墩と相違しており時代か身分が違うのでしょう?
①太鼓が大きく台座の前にせり出している。
②材質の違う白い石を使用。
③太鼓を乗せる鼓座の様式が異なる。
箱子型門墩の5組の紹介です。
始めに紹介する2組は、龍が生んだ九匹の子の一つ“獣吻”(邪気を好んで食べる)の頭部が彫られています。
画像1:省府西街32号の門
画像2:省府西街32号の門墩
正面に房の付いた環を銜えた“獣吻頭”が彫られています。
画像3:省府后街13号の門
画像4:省府后街13号の門墩
正面に房の付いた環を銜えた“獣吻頭”が彫られています。
次の3組には何も模様は彫られていません。
画像5:省府后街14号の門
画像6:省府后街14号の門墩
台座の上に箱を置いている簡素なものですが風格を備えた門墩です。
黄色いのは高さ27cmのB5版のファイルです。門墩の大きさを推測し
てください。
画像7:大坑沿街9号 の門
画像8:大坑沿街9号の門墩
門扉が取り払われ門柱の陰に置かれた無彫飾の門墩
画像9:山貨店街41号の門
画像10:山貨店街41号の門墩
門扉が蝶番に改造され門柱の前に置かれた門墩。
省府后街14号より更に簡素で、台座を持たない無彫飾門墩。
門枕の紹介です。
画像1:楽観街47号の通り(西→東)
画像2:楽観街47号の門枕
横の煉瓦から推測して縦横共に約30cmの大きなものです。
正面に対角線が彫られています。左右の三角部分には水平の、上下
の三角部分には縦の鑿跡が認められます。
簡素なものです。木製?
画像3:西司門街3号
画像4:西司門街3号の門枕石
前のペットボトル(高:25cm)から推測してこれも大きなものです。
彫飾は無いようです。
画像5:前保定巷14号の門
画像6:前保定巷20号の門
画像7:大坑沿街29号の門
画像8:西半截1号の門
門枕をそなえた門です。
抱鼓型や箱子型門墩をそなえた門と遜色のない風格を備えた門です。
今回開封城内で見つけた9組の門枕は、模様の彫られていない大柄な物で、門も門墩をそなえた門と大差無い立派な物でした。
他の地方の門枕には無い特徴だと思います。
一部の人が「門墩は宋代に発生した。」と唱えています。
私は「宋代には門墩は無かった。門枕だけだった。」と思っています。
ここで、その根拠を二つ提示します。
画像1:宋代の門砧1
この絵は宋代の画家張擇端(1085~1145年)が北宋(960~1126年)の
都汴梁(現在の開封城)の繁栄振りを描いた≪清明上河図≫の巻末の
部分です。
左の端に屋敷の門が描かれています。門の右側は門扉だけでなく柱
や壁までが大きな石の上に乗っています。
この門は5m28cmの長い絵巻物の中でも立派な門の一つです。
もし、この時代に門墩が存在していたのなら、首都の繁栄振りを描いた
張擇端が描かないはずは無いでしょう。
画像2:宋代の門砧
≪清明上河図≫の後半三分の一の部分の図です。
画像1巻末の門と同じ構造です。
屋敷を訪れた主人の付人が樹や壁に寄りかかって休んでいます。
大きな門砧は座るには丁度いいようです。
画像3:宋代の門砧2
図は北宋の皇帝哲宗の勅で当時の建築に関する事項を網羅した建築
全書≪營造方式≫(1103年刊行)に載せられている図です。
門砧限に彫刻を施す場合最も手間のかかる例として掲載された図
です。
(出典:「營造方式の研究一」 竹島卓一著 中央公論美術出版)
もしこの時代に門墩が存在していたなら、編者が取上げないはずが無い
です!
「北宋時代には門墩は存在しなかった。」のです。
この二例で充分だと思うのです。如何でしょう?
第5節 開封市 終