08年9月3日~10日黄山市地区の門墩調査をしました。
一昔前の中国には“北在山西、南在皖南”という言葉があります。これは旧中国の経済体制を支配する二大金融中心・商業中心地を表す言葉です。
黄河流域の富の中心地は山西省地方・長江流域の富の中心はここ皖南地方(安徽省長江以南・黄山周辺)だったのです。
第2節 宏 村
黄山南西部の黄山市黟県宏村は、南宋時代の初め1131年に汪氏一族が雷崗山の南側麓に移住してきたのが始まりです。
その後農業だけでなく商業取引にも才能を発揮し裕福な村に発展しました。
現在明清時代の優雅な建物が137軒も有り、近くの西逓村とともに世界文化遺産に指定されています。
画像1:宏村の観光案内図 (画像をクリックして 大きくなりますヨ)
村の西を流れる西渓川から水を引いて村の南側に大きな“南湖”を
作り貯水しています。
村の中心にも半円形の貯水場“月沼”を作っています。
画像2:南湖書院
南湖に面して清嘉慶十九年(1814)に建てられた南湖書院です。
この書院で教育に力を入れ、多くの人材を育て村は発展しました。
画像3:月沼と楽叙堂(汪氏の宗祠)
月沼北側に明朝永楽年間(1403~24)に汪氏宗祠楽叙堂を建て
それを囲んで邸宅がぎっしり建っています。
画像4:月沼沿いの民家
ここは観光の中心地で多くの観光客が来ます。
多くの美術院学生が写生に励んでいました。
画像5:月沼沿いの敬修堂
画像6:月沼沿いの敬修堂の出入口内側
月沼周辺の邸宅には多くの観光客が参観に入っています。
住人は土産物売りや食堂経営に励んでいます。
画像7:村の東側の路地
観光地域から離れた村の端には村を流れる清流で親子が菜っ葉を
洗っています。
この村には抱鼓型門墩が3組だけでした。
他でよく見る獅子型・箱子型は有りませんでした。
3組の門墩があったのは次の3軒です。いずれも門扉回転軸を支えておらず門の飾として設置したようです。
画像1:承志堂
塩商人汪貴定が富にあかせて清朝の1855年に建てた宏村で最も
豪華な邸宅です。
画像2:承志堂の抱鼓型門墩
(高:200cm 幅:26,5cm 台座奥行:60cm)
画像3:務本堂の正門
清朝の1656年に汪氏の分家一族が祖先を祀った支祠です。
画像4:務本堂の托日型門墩
画像5:慎余庭
清朝の1830年に建てられた邸宅です。
本来の門は現在の門の左隣で、この出入口は観光用の食堂として
近年造られたのではないかと思います。
その時抱鼓型門墩を門飾として設置されたのだと思います。
村に門墩は抱鼓型が3組しかないのでこの村は商人の村で身分の差が無いのかと言うとそうでも無さそうです。
邸宅の広さや門の外観には大きな差があり、住人の身分の差を感じさせます。
“八字門楼”造りの邸宅
屋敷の塀を2m位八の字型に凹ませて豪華な門を建てているのを八字門楼と言います。
八字門楼を建てるには昔はお上の許可を必要としたそうです。
村にはこの八字門楼を持った大邸宅は前回の承志堂の外に2軒ありました。
画像1:樹人堂(勅授奉政大夫である星衆氏が清朝の1862年に建てた邸宅)
画像2:敦本堂(清朝の1656年に建てられた汪一族の支祠)
“影壁”を持つ邸宅
通行人に屋敷の出入口が直接見えないように建てた塀を“影壁”と言います。
影壁を設けた邸宅は数軒あったと思います。
画像3:倍徳堂(清朝の1882年に建てられた邸宅)
八字門楼と影壁を持たない一般の民家は道路に沿った屋敷の壁に門を設けています。
画像4:楽賢堂
画像5:徳義堂
第2節 宏 村 終